*電子うさぎの記憶* v.2.0

C-PTSDなんのその。 本当の事を知りたいだけで食ってます。全ては終わらないパズル。反フロイト・反スピ。

・暴力の後遺症からは逃げられないと思い込んでいる今


命からがら実母から逃げました。

その時、もう、「生ききった」って思ったのです。

だから、彼岸に足を突っ込みました。


世間では、「子供の頃に暴力を受けた人が悪い」と言います。

そうなのかな。



自己肯定感のウソは、統計学的にも生理学的にも、心理科学や脳の生理化学でも「自己肯定感という概念自体が存在していない」が証明されています。

出典がほしければ、コメント欄に書き込んで下さい。



世間には様々な暴力がはびこっていますが、「被害者に原因があった」という言説が神話(都市伝説であって、根拠がないもの)が、あたかも当たり前のようにドグマとして根付いております。


その発端なのですが・・・
開国以来、西洋文明とともに入ってきたフロイト(1904・精神分析論)で、あらゆる暴力を肯定してしまったのです。
彼は「男性だった。そして、彼が自分の権威を振りかざすために、何人もの人を自殺に追い込んでいる」という文献が山ほど残っています。


せっかく日本は開国したのに、男性も心があるのに「男性は暴力を奮って良い」という精神分析学に飛びつきたくなる背景が当時の日本にはありました。

明治のその当時、「男性だから犠牲になれ」「男だったらこうあるべき」という日本の風習は、揺るぎないほど強固なものでして、地位が高くなればなるほど、男性への期待とあるべき姿が固定されており、勉強が大好きな学者さんたちが「男も心があるのに!ようやく、自分の気持ちを代弁してくれる人が現れた!」と、フロイトに飛びついたという経緯があります。

いまも、開国から150年近くたっているのに、経っているからこそ「それが普通」となってしまっています。

残念なことに、1910年位から、精神医学や精神療法の教科書の「底本」が変わっていないのです。

ですので、精神科医の頭の中は、少なくとも100年以上前ということになります。
データの書き換えをせず「精神療法及び、精神分析法の歴史/精神衛生学の歴史」として、今も教科書がそのままです。
心理学の学者によっては、「自由翻訳」と揶揄する人もいます。日本語で言うと「適当な解釈しかしていないので、信用できない翻訳」ということです。
(心理哲学と精神衛生学の対立は、1900年代からずっとなので、内輪もめが収まっておりません。終わらせたらどうかと思う。)


※ 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
(リンクをクリックすると、どのブラウザでも本をそのまま読めます。=本を写真に撮っているものです。インターネット公開及び、著作権保持期限を経過したものです)

「精神療法学」 石川貞吉 著 近世医学叢書 ; 32編 /明43.12(1910)

近世心理学文庫 ; 第3巻 「精神分析法」 久保良英 著 大正6(1917)



閑話休題--



PTSDやC-PTSDにならない人も大勢います。

じつは、それが遺伝子が50%程度関与していることは、沢山の論文に書かれていても「本」や「人伝え」で広がることはありませんでした。
PTSDや CPTSD にならない人も確実にいるということです。
逆に、PTSDやC-PTSDの状態になる人も、確実にいるということです。
どちらが正しいということではありません。

どちらが正しいのか個々人によって全く違うのに、なにかが起こった人に対して、私は「その場から離れたんだから、骨折は治るよ」「骨折したら、もう終わったことだ」「胃を切除したんだから、もうたくさん食べられるよね。よかったね。乗り越えられたね」は、言えません。


主観ですが、もともと私は、さっぱりした性格で引きずらなく、沢山の人に出会うことが大好きで、知らない間に誰かが元気になっているので、それが嬉しいなという性格でした。

しかし、実母から逃げてからのほうが辛かったですし、今も辛いです。
地の性格は変化していないと思いますが、実母から逃げた後に「過度に慎重になった」というのはあります。

それが、虐待後の後遺症なのかどうなのかは、なぜか研究対象になっておりません。

世間では「虐待後は精神病になる人もいる」という決めつけが横行していますが、「そうではない人もいる」というデータはやはり公にならないか、隠されています。

今現在「虐待を受けて、今もとてもつらい」という気持ちを表に出すと「甘えるな!」とナゾの日本語を浴びせられることになりますので、「鬱々として、もうだめです」というキャラ作りのほうが、実際に世間からの攻撃をかわせます。

世間様に逆らい、「虐待後に生き延びた強さ」が、気に食わない人もおられるようなので、身を守るにはなりふり構っていられないのが現実です。まあ、世間様というのはきったね~場所であります。

きったねー場所の現実の世間様の中には、心ある人も多く、そういう人をひとり見つける度に「宝物のような魂が実在するのだなあ」と、そっと心にしまい込んでいます。大切ですから。




フロイトたたきに戻りますが・・・(しつこい)

知らない他人が「コイツは重い、うざっ」と判断する根底には、開国以来のフロイトの男根主義(西洋の男性は、誰に暴力を奮っても良いという前提です。日本の無理やりな男らしさがフツウの世界)を、日本の女性も男性も知らずに身に着けてしまったというものも、ひとつあります。

しかし、それは親が植え付けたものではなく、個々人が生まれた後に経験を積みながら、親とは関係ない場所で体感した個人的な感覚だというデータも出ています。
もちろん、親が「その人にとって」影響力があれば、「親から」かもしれませんが、親の影響力だけで生きてきたら、今も江戸時代のままのはずです。



私が実母から逃げた後、「暴力から自分を護るという、最大限の生き延び方」を「あんたが親から受けた暴力は、親に暴力をふるえと言ったからだ(暴力を震わせたのは子供だ)」という世間様の当たり前が、あまりにも辛すぎて、「だったら逃げないで死ねばよかった」と今も思っています。

あの時。


暴力には、今はたくさんの名称があります。
DV・モラルハラスメント・精神的な虐待などなど数え切れないほどの「暴力のカテゴリ」が精神科医によって生み出されました。

しかし、暴力というのは、根本的に、身体精神関わらず「ひとりの人、もしくは、多数の人や生き物に対して、加害者の弱さを埋め合わせするためとしか思えない、加害者自身の感情を自分で受け止める能力がないであろう人が行う行動。しかも、加害者が暴力を振るうためのターゲットを絞ったら、被害者が逃げてもつきまとうほど喜怒哀楽を自分で受け止められない人が起こす行動」であろうと思います。

それらの人と行動を「暴力と、暴力の加害者」といいます。

暴力の被害者とは、「その人には、なんら問題がないのに暴力を受けた」。
それがすべてであろうかと思っています。


残念ながら、被害者の落ち度を探すのに必死な精神科医や男女共同参画センターや、自称フェミニストがに限って、暴力を受けていない場合も多い。

もし彼らの大半が継続的な暴力を受けていたら、人の被暴力の話を聞くという仕事は自分の身に降り掛かったことと常に向き合わねばならないので、重いのではなく、とてもつらく気持ちが分かるだけに、とても悲しく、怒ってしまいます。
その仕事は感受性の高い人には務まらないので、結局は非常に鈍感な人が残っているように感じています。
なので、人の被暴力を聞く仕事をしている人は、幸いにして暴力を克服した人やら、暴力に遭っていない人です。

20年の間、元夫の相談を方々にした結果、得たことといえば、「フロイトに植え付けられた人の100年以上前の本を教科書にしているか、暴力を受けていない人、克服したという自負が有る人」が非常に多く、その数字は個人でカウントしても、膨大な数に上ります。

暴力の被害をを受けた鳥は「被害を受けたその鳥が悪い。その鳥が加害者に暴力を振るわせた。被害者ぶってんじゃねえよキチガイが!」と言いますでしょうか?
相談員/処方薬しか出せない精神科医は、そういう事を平気で言います。
密室では何を言っても良いのでしょうか?
私はそうは思いませんので、ボイスレコーダーを持ち込んで、録音中にその小さなマシンが赤く点滅するように設定して密室状態を回避しています。
そうでもしなければ、「二次被害」は、闇に葬られるからです。



私の今の状況は「暴力を受け続け、実母に対しての感覚はほぼ処理出来たけれど、前夫に対して20年間に渡ってどれだけ心を砕いても、前夫から暴力を受け続けたことに関しては、まったく処理ができていない」という状態です。

それに、名称をつけるとしたら。。。勝手につければいいですけど。

実母の場合は、わかりやすく「C-PTSD」と書いています。





私は今、ようやく暴力から逃れて、「休む時」と思っています。

もしかしたら、それが一生続くかも知れません。

誰も信じられないまま、信じたいという気持ちがうまく出来なくて罪悪感を呼びます。

しかし、いまは、そうでしかありません。


暴力の後遺症・・・。

骨折や、寝違いの後みたいに、完治せずとも何となく治ることであれば、それを目指すことが出来ますが、今は、後遺症中というしか無い状態です。



私の見えている世界は、まだ暴力を受けていないと思い込んでいた時の「色と感覚」を頼りにしています。

今、何色が見えているのかを判別しているのは、生き延びるために必要な「情報としての音と色」のみです。それも、上記の記憶が無ければ、色や音はありません。


泣く場所は、お風呂場か車の中だけです。
外界をシャットアウト出来る場所があるだけでも、まだいいのかも知れません。


人の楽しさは全く分かりませんが、人の苦しみは身を切られる以上に辛いです。
でも、辛いからこそ、寄り添うことができているのかも知れません。
私に出来ることは、それぐらいしかありません。


今、猫のコトリさんに「鳴かなくても、大丈夫だよ」を覚えてもらっています。
コトリさんの不安や恐怖が無くなることはないけれど、「大丈夫かも・・・」と思う可能性がある限り、私は逃げません。

実母や、パワハラで私を潰した人や、元夫や、精神科医や、各種相談員は逃げた後に暴力を振るう人でもありますので、おなじになりたくないだけです。


優しい映画が心の救いです。

宗教は、何の役にも立ちませんでした。

映画は、プロパガンダが多いと思いますが、それでも、俳優さん一人ひとりが、それを作っている数千人の人達、それに関わっている人達が数万人単位で一本の映画を作っているのだと思います。

ストーリーよりも、もしかしたら、優しい映画に関わった人達の優しさや善意に触れることで、生きてこられているのかも知れません。


私は、夜の静寂の中で、ちょっぴりホッとすることが幸せです。


--2021.11.28・編集
編集したら、もっとよくわからなくなったかもTT
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2021-11-28 -
[ 返信 ]
電子うさぎ
>鍵コメント様へ

コメントをありがとうございます。

自分で、もう一度この記事を読んでみたのですが、自分にツッコミを入れたくなるほど支離滅裂でした。
この記事にコメントを下さっただけでも、ご心労をおかけしてしまったと思います。

頂きましたコメントがとても暖かく感じました。
なんというか、恐縮です。
好き勝手なことを書いておりますが、鍵コメ様の気持ちはすごく伝わってまいりました。

はい、なんとか乗り切ってまいりましょうね。
がんばります。

こちらこそ、ありがとうございました。


2021-11-28 電子うさぎ
[ 返信 * 編集 ]