*電子うさぎの記憶* v.2.0

迷惑なサイコパス炙り出し・フロイトの手の内暴露・偽スピ系/偽精神科医/偽カウンセラー潰し。人を攻撃する目的皆無

・26日 /メディアなしの日本でも生きられたよ


いきなりですが、引用です。

(「無断転載を禁じます」と書いてありますが「引用は合法」です。朝日新聞社はこのブログの文章・画像の引用及び無断転載・無断使用一切を禁じます。およびこのブログの著作権はFC2に帰属しているので、FC2サーバと直接交渉のこと。以上)



--引用ココから--

殺人テロの宣言、ワープロで印字 「赤報隊」の犯行声明

2017年4月20日14時37分

白紙に縦書きで、ワープロの印字が整然と並ぶ。

「日本を否定するものを許さない」「反日分子」

 朝日新聞阪神支局襲撃事件の3日後の1987年5月6日、「赤報隊」を名乗る犯行声明文が東京の通信社に届いた。その文章や語句から、兵庫県警の捜査本部は右翼関係者らを中心に捜査したが、犯人逮捕に至らなかった。

 支局3階の襲撃事件資料室にある声明文は全体が黄ばみ、所々に赤紫色のシミもある。紙の劣化に加え、指紋や掌紋の採取のために使われた金属粉が酸化したためだ。

 声明文には7カ所に四角い穴が開いている。捜査本部が字体から犯人が使ったワープロ機種を特定するため、文字の一部を切り取った。

 「すべての朝日社員に□□を言いわたす」

 「□□」には「死刑」の2文字があった。ほかに天罰、極刑、処刑と言い回しを変え、殺人テロを宣言していた。

wa001.jpg

--引用ココまで--



赤報隊ってなんでしょうか。
(何も知らずに生きられる国よ・・・。
40年以上前に日本赤軍による「線路に爆弾を仕掛けた」という電話一本で、新幹線が頻繁に数時間止まったと、子供の私に言っていた大人がおりました。でも「遅延した!」という怒りではなく「また?」という感じです。毎回「爆弾は見つからず」でした。子供のころはテロが日常だったので平気でした。何度も繰り返して書いていますが、戦後の昭和は最悪です。
今の穏やかさは、団塊の世代を窓際に追い詰めたり、煩くて暴力・暴言が多いので我慢し続けたり、セクハラ・パワハラ(すべての嫌がらせという暴力)を行う団塊の世代の行動に精神的に追い詰められたり、それでも「ああはなりたくない」と、苦労して作り上げてきたものですが、一部の老人どもが「最悪の戦後昭和」を再現していますが静かにしていただきたいです。
ダンカイジュニアは、人数が多いので「バカも多い」のも、同じ世代として知っています。恥ずかしい限りです。
団塊の世代のひどさを見ているので、何とか抑えようとしている人もいました。
彼らを抑えきれなくて、時々消えたくある時もありましたし、私の年代の人がどうしようもない時に何度も警察に通報してきましたが、消え入りたい時も多いです。
健在な団塊の世代の上の世代の人たちは話が通じるので、かなり助けてもらっています。その流れにいる人は「まとも」な人がほとんどです。)

赤報隊に対して「殺人テロ」という言葉を使っているのですが、「テロリズム」には殺害も暴力の中に含まれます。

どうも、朝日新聞は日本語があまり上手ではないようです・・・。


朝日新聞社が映画の宣伝をしているのですが、赤報隊という「新聞社を襲撃した犯人を主人公にした映画の宣伝」を、やはり見たことがありません。


時系列で、朝日新聞関係の襲撃事件を見ていると「テロリスト同士の内部の衝突」に見えます。

うどんとそばの違いとか、桜と梅の違いが判らない人たちが「ウチゲバ」なるものを行ってきていたように感じます。

言論の自由を守り抜くと謳い続けている朝日新聞が、「嘘しか報道しない自由」を続けていますが、この新聞社の記事を一切読まずに生きてきたことで、影響は最小限度に抑えられているかもしれないと、ちょっと楽観してしまいます。

もちろん、朝日新聞社は本も出版していますが、「朝日出版」「朝日新聞/出版部」や「朝日に関連した著者」を意識して避けてきました。
なんとなく、嫌だったからでした。



「朝日新聞襲撃事件ドラマ」を、「NHK」で作ったと、朝日新聞は報じました。
2018年1月18日のデジタル記事上でです。

私は、NHKと朝日新聞は避けていましたので知りませんでした。

「知らないほうがいいこともある」と思う時が多い人生でありましたが、知らなくてよかったです。
このドラマを作りナルシシズムの境地に陥り、極左NHKがそれに協力した内部の癒着に対して憤怒の念を持つことがなかったことを知らなくて本当に良かったです。


--朝日新聞より引用--

NHKスペシャル「未解決事件」の6作目が27日から2夜連続で放送される。1987年の憲法記念日に記者2人が殺傷された朝日新聞阪神支局襲撃事件など一連の「赤報隊事件」を取り上げる。初日の実録ドラマで、犯人を追う記者を演じる草彅剛さん(43)が朝日新聞の単独インタビューに応じた。演技を通して、「自由にモノが言える社会とは何か、考えるようになった」と言う。

 発生直後から朝日新聞特命取材班で事件を追い続けた樋田毅さん(昨年退職)を演じる。NHK取材班による本人へのインタビューなどをもとに「リアリティーにこだわった」という脚本を読み込み、当時の映像も見たという。

 「30年前、僕は中学生。記憶の片隅に、見たことがある映像でした。小尻(知博)さん(阪神支局員で散弾銃で撃たれて死去、当時29)の遺族をはじめ大変な思いをした人がいる。一生懸命演じないといけないと思った」

朝日新聞襲撃事件とは
1987年5月3日午後8時15分ごろ、朝日新聞阪神支局に目出し帽の男が押し入り、犬飼兵衛記者と小尻知博記者に無言で散弾銃を発射し立ち去った。小尻記者は4日未明に死亡。東京本社銃撃、名古屋本社寮襲撃、静岡支局爆破未遂も続き「赤報隊」を名乗る声明文などが届いた。一連の事件は未解決のまま2003年3月までに公訴時効が成立した。



 警告を発するわけでもなく、何か主張するわけでもない。新聞社に入ってきた目出し帽の男は、そこにいた記者たちにいきなり散弾銃を向けた。腹部を撃たれた小尻知博記者が、失血により命を落とす。29歳だった
30年前の5月3日、朝日新聞阪神支局で起きた襲撃事件は、まぎれもなく言論に向けられた銃口であった。

--引用ココまで--


「言論に向けられた銃口」を向けたテロリストを擁護し「革命+1」と銘打っての上映期間中なのでしょうか?今。


もともと、朝日新聞を避けてきましたし、読んでいませんでした。

NHKもラジオ深夜便みたいな「戦前の人に話を聞く」みたいな深夜のラジオを聞いたことはあります。

しかし、NHKは見ていませんでした。

朝日・NHKとも、「攻撃しているようにしか聞こえない。日本の放送局とは到底思えない」は、日本に帰ってきてからすぐに感じたことでした。

日本に帰ってきたときの違和感は「テレビの内容」でした。

そして「テレビの内容を話題にする人たちの多さ」にも違和感を感じました。


何のために、その国に留まるように説得されたのを振りきって日本に帰ると決断したのかがぐらついた瞬間でもありました。

でも、私は、「日本を出たら、その国の人たちよりも日本のことを何も知らない日本だった」というショックを忘れることができませんでした。

虐待という名の「精神的・肉体的暴力」は「無かったことにしない」。むしろ、身体的暴力の恐怖と同等か、それ以上に恐怖感が残り続ける精神的な暴力の数々が野放しになっている日本を「安全」だとは思えませんでした。

平和であっても安全ではない。

非常におかしな状況ですが、平和であったら、安全でもあるようになりたいと、たくさんの人の話を聞き続けました。

やはり「精神的な暴力は、証拠を取りづらく、なかったことにできるからこそ、言葉の暴力や態度での暴力が横行している」という一つ一つの声を聴き続けてきました。
もちろん、日本だけではなく、日本国外のあらゆる人の声も同じです。

ただし、日本は精神的な暴力は「気のせい」「なかった事にされる」「聞く耳を持たない」「何でも言ってねと言いながら聞こうとしない」「心を失いつつある」・・・

その根源を探ってきました。


先人の知恵を借りるために、本をたくさん読み続けました。

日本を否定しない人たちは、言論弾圧に屈しないなんて書かなくても何とも伸び伸びと書いていました。

最初から「言論弾圧」なんて日本にはありませんでした。

しかし、「話してはいけない、聞いてはいけない空気」を、朝日・NHKを始めとするメディアがジワジワと醸成させていった事は、私が朝日やNHKやメディアを通さない状態で情報をやり取りしてきて分かったことです。

情報は「本人に聞く」。

分からなかったら先人の残した文献に頼る。

そこには、言論弾圧も何もない「上手に人の話を聞く姿勢」が込められていました。


私は日本に帰ってきてから、魔女狩り・異端審問にかけられることが多く、「優しすぎる・変わっている・変だ・・・」と言われてきました。

私は、日本に生まれましたから、元々あった日本を探しに帰ってきただけです。

国外にそのままいたら、日本語の文献は限られますし、本人に聞く、先人に聞くということも難しかったと思います。

しかし、どんなに叩かれても、どんなに弾かれても「私は日本が好きで、日本オタクなんだよ・・・」と笑ってきました。


私を支えてくれていた柱になってくれていた人たちがいます。

メディアではなく、日本国外にただ憧れて流行を追い、お金を払えば偉い、大きな声で威圧すれば勝ち黙ったら負けという貧弱な思想を頭に埋められている人たちではありませんでした。



ずっと、独りだと思ってきました。

今の若い人たちを、私のような目に合わせる訳には行かないと、年長者の横暴を耐えることなく毅然として睨んできました。

女性だからではありません。

これから未来を創っていく、もう今は未来ですが、彼らが私のように「心を痛めつけられて、心を折られ、立ち直れないほどの傷を負わないように、私は何度でも折られよう」と決めて、自分には子供がおりませんが、どの人もかわいくて参りました。

若い人たちの力は絶大です。

私の祖父母や戦前生まれの父や、その人たちは、当たり前の日本を保っていました。

根幹が揺らがないのは、先人が長く作り続けてきたこの、今いる場所なのだろうなあと、大切に静かに暮らしています。

暴力に対して「被害者という弱者を装った強者」になってしまったら、戦後の団塊の世代と同じになってしまいます。

ただ、心を大切にしたかった。

そのために帰ってきて、良かったと思っています。


私には、マスメディアの情報が必要ありませんでした。

暴力を振るわない人は、情報共有をいとわないですから。

私には、朝日やNHKは必要ありませんでした。これからも必要ありません。


そして、フロイトの流れをくむ「人を人とも思わない人たち」、それに影響された偽スピリチュアル系も、突拍子もない陰謀論者の崇拝する太田という人物も、カルトも、作られた流行も必要ありませんでした。

もともと、日本は、世界が目指していた、喉から手が出るほど欲しがるほど「成熟した国」です。

私は、どの人もみんな違って万華鏡のように美しく、それを批判したりせずに楽しがって、辛い時にこそ人の心に寄り添い笑顔で、何かを作ったり考えたりするのが素朴な日常で、創意工夫が驚くほど洗練されていて、人の気持ちを察知する能力は世界から見れば超能力に見えるほど優れている、諍いは遺恨を残すからやめようと自分を止めることができる感受性が抜群であると言い続けてきました。

たったこれだけの事を言い続けただけで、魔女狩り・異端者として弾かれ折られましたが、「魔女狩りや異端者狩りをするような暴力をふるう人たちを私で止められる数は少ないけれど、暴力を振るい破壊するだけの人を一人でも多く止めて、新しい道を作っていく人たちに道を開けよう」としてきました。


日本に、帰ってきて良かったです。


私は、私が好きなように生きられるようにしてくれた先人の通りに生きただけです。

これが、私の知っている日本です。






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I just wish them and we all Japanese also safe .