*電子うさぎの記憶* v.2.0

迷惑なサイコパス炙り出し・フロイトの手の内暴露・偽スピ系/偽精神科医/偽カウンセラー潰し。人を攻撃する目的皆無

・「人間を超えた人間を造る」by タイレル/ブレードランナー(1982)

100_11.gif


ブレードランナー(1982)を、また見てしまいました。

ちょっと気になるところがあったので・・・。

「誰が人造人間なのか?」というのは、原作においてはハッキリしています。

映画は「原作を元に閃いたアイデアを脚本にする」というハリウッド方式の脚本+映画作り(アイデアはフィルムメーカー/映画製作者が持っていない)なので、「映画は原作とは全くの別物」として観ています。

本を読んでいて「お、このシーンは」と思うことがありますが、そういう風に映画を作る方式がハリウッドなので、邦画のように「原作を映画がどこまで映像化できるか?」という職人技とはチト違います。


ブレードランナー(1982)で、タイレル社の社長が「人間を超えた人間の創造を試みているのだ」というセリフがあります。

(自由連想法みたい・・・)

そこに、J.F.セバスチャンという「ゲノム設計者」(遺伝子組み換えとか、DNAをいじる人)が出てきます。
彼は25歳ですが、「速く歳を取る病気」という設定です。
(ゲノム設計者ですが、彼自身が「ゲノム設計された旧型ネクサスで秀でた能力があるのかもしれません。知能特化型ネクサス?)

眼球を作る人も出てきます。

ネクサス6型のアンドロイドは、「旧型」で、7や8型が出てくるのですが、8型に飛ぶのは、2049ではないかと思います。(9型かも)


タイレルが言う「人間を超えた人間を造る試みをしている」という言葉は、2019年11月(現実は2020.01にちょっとずらした)という映画の舞台にピッタリというか、「ブレードランナーもプロパガンダ(広告)だったんだねえ・・・」と感慨深いです。

大好きな映画ですし、監督さんが「僕はね、コマーシャル専門(CF/CM)」というのを数十年前に読んだことがあります。(元データは頭の中にしかない)

CMを作っている人が映画を作ると「細かい所まで作りこむ職人技」みたいな映画が多いですが、ブレードランナー(1982)も、どの場面で画面を止めても「絵になっている」。


コマーシャル映画として見るとしたら、映画作成時には計画してあった2022頃の今を「広告/プロパガンダ」として作るのは、別に変ではありません。

お陰様で、私は「人間って不思議な生き物だよねえ」という「不思議」と「人間とは、かろうじて生き物でもあるが、何かが決定的におかしな場所がある」とか、監督さんの思惑にすっかり引っかかったまま生きてきて、結局「人間って何?」という根本的な問いを持ち続けるという人生になっています。

うまく乗せられましたが、CMを作る人は「キャッチコピーの天才でもある(そういう能力がある人がチームにたくさんいる)」と思います。


映画中のセリフの「人間を超えた人間を造る」というタイレルの「キャッチコピー/キャッチフレーズ」が、「予告CMだったのではないか?」と思いました。

それに、映画に出てくる人造人間の「ネクサス6型のアンドロイド」は、タイレルからすれば「旧型」です。
新型が出来たら、旧型はOFF-WORLD(ユートピア)を作るための作業用にでも使おうという、1980年代の「唯物主義が跋扈した時期」(使い捨ての時代)には当たり前の感覚だったのではないか?と思いました。

物が欠乏し続けていた私とは縁のない、唯物主義者ばかりの時代の人にとっては「使い捨てという感覚はフツーなので気が付かなかったし、逆に旧型は使い捨てにしても良いという隠されたメッセージによって自己を肯定された感覚にも陥った」と思います。

物が常に欠乏していた私には「なぜ、人間であろうが人工的に作られた試作品の人間以上にDNAを設計された人造人間(アンドロイド)を作業用にするのかサッパリ分からない。人間以上のモノを創ろうとしていて失敗した場合、作業用に利用し、しかも4年でそのアンドロイドを停止させるデバイスを組み込んでおくという保険まで掛けるとは・・・」と、「なんで、生命反応を停止させるデバイスを組み込んだんだろう?」と、不思議でした。

どうやら、タイレルもタイレル社も「ネクサス6までは失敗し続けていた」ということなのでしょう。
(ネクサス1~5もあるはず)


映画は予告なハリウッド映画ですが、この映画にも「アンドロイドというモノリス」も出てきました。

確かに、2019年までには「モノリスを常に携帯している人も増えてきていた」と記憶しています。
(モノリス=映画「2001年宇宙の旅」1968に出てきた「黒い板」↓です)
1448.gif


2022年もそろそろ終わりですが、「予告通りに事が進んでいる」のか、「もともとは一つの地球産の生命体が山ほど分裂しても、どこかで繋がっていたら、元々は一つであったものが予告を作らせたのかもしれない」のか、どちらなのか?は、私には分かりません。


権力者が恐れていたのが「体が一つで、頭の部分にたくさんの頭が生えている化け物=大衆」であった1500年ごろの西洋文化圏の木彫りの版画を見ていると、「どちらが支配者なのかサッパリ分からん」とさえ思います。


何をもって生命というのか。何をもって人間というのか。何をもって命というのか。私には答えが分かりません。

もし、ブレードランナー(1982)が、原作者の「人間とは何か。感情とは何か。命とは。心とは。感覚とは。愛とは・・・」というテーマを尊重していたとしたら、監督さんは「もともとは一つであった生命が何十億にも分裂して様々な場所に住んでいる生命=大衆に作らされた広告(予告)」かもしれないなあ・・・と、思いました。


2020から、あからさまに動き出したヒトという動物が「それを望んでいた総意として、動かせる駒として権力者など(感情がなく、脳機能の欠損があるという特徴を持つヒト)を動かしている」としたら・・・

権力者の方こそが奴隷であるという皮肉にも感じる映画なので、この映画は好きでたまりません。


「人間を超えた人間を創造したい」というタイレルの一言が「大衆の総意」であるとしたら・・・。

動かされているのは、むしろ、「ゲームを辞められない人たち(権力者や何かわかんないけど、ギャンブル好きの人たち)」なのでは?という逆説が、ふと、頭に浮かびました。

それだけなんですけれども。




--ツケタシ--

何度か見ていると、細かいことに気が付く面白映画なのですが、「デッカードが雨の中、蛇を巻き付けていた女性型レプリカントと一緒にいる時と追いかけている時のシーン」で、ずっと同じ日本語の男性の言葉(会話のどこかを切り取ったもの)が入っています。

「どこかの国の言語の発音と意味が分からない感じ」で流れているのですが、「日本語の音と意味が分かる人には、何度も同じ言葉を繰り返しているんだけど・・・。雑踏の声なんだろうなあ。しかし、気を取られる・・・」と思います。

日本語字幕も日本語吹き替えも無しで観ている間は、日本語が聞こえても単なる音なので気が付かなかったのですが、ようやく、初めて気が付きました。

(観たのは、インターナショナル公開版です)




関連記事



*ランキングに参加しております*
   

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

   

These flags just a symbol and where my friends living in and I am.
I just wish them and we all Japanese also safe .