*しろばかうさぎノ記憶* / 旧・電子うさぎの記憶

一段落付いて、普通の徒然に立ち返りました。私は自分を育ててくれた国を知りませんでした

・寒いっ& 久生十蘭「従軍日記」2007

なんだどうしたんだ?と思い、ふと時計という贅沢なものを見ると、そこに同時に表示されている温度が、記憶にある数字から15度も下回っている。

その数日前というのが、一体何処に有るのか定かではない程の数日前で、一体これはどうしたことなのかと訝しくなる。

どうせ徒然を書いても、何らかの形で文字にした途端に消えていく感覚が抜けきるには如何したらよろしかろと途方に暮れている。

何かが、すっかり空になっている。

確かに世の中は動いているのだろう。それは、バカ猫が食べていくご飯の量でも分かるし、トイレ掃除をした回数もビニール袋が増えていく事で分かる。

一体、このバカ猫がいなければ、私は存在していないのも同然だ。


何が抜けたのかが分からないのだが、何かをドップリ喪失したらしい。その後に鬼のようにやって来た空虚という魔物に取りつかれて、前にも後ろにも進めない。

息を吐くと、それは砂の煙のように無意味な感じがする。砂ならまだマシで、何もない。


こういう時は、何を喪失したかなんて分からないので、とりあえず本を読む。

運が悪い事に、久生十蘭という作家の、しかも、「従軍日記」という大層な題名の本が目に付いてしまい、読んだらそこの風景が目の前にそのまま映し出されて、恐ろしい体験をした。

なぜ、久生十蘭の、しかも従軍日記なのか?いつ手に入れて、いつからそこにあったのか分からないほど、「今読めば?」という風に目に入るから、逃げられなくなった。

どういったものか分からないまま読み進めていたら、ちょうどその時空襲警報にそっくりな、田舎の防災無線の点検ですという音が重なって、恐怖が倍増しになるという憂き目に遭いながらも、やはり「なぜ、今なのかな」と、本を閉じて、断念を決め込んで何かやろうと思っても、そこには虚しか無いので、仕方なく作者の日記を忌々しく思いながら読み進めることとする。

この作家の作品の本をなぜ先に読まんのだ?と思い、少々読んでみるが、どうしても従軍日記に戻ってしまう。

一体、この人はだれなのだろう?

虚空と虚無と空白と喪失が私だけに取り巻いているだけのようで、下手に、一冊の本を開いてしまうと、空っぽの私の中にそのまま体験として入ってきてしまうではないかっと、少々不安になる。少々しか不安にならないのも問題だと絶望していたら、その中の兵隊さんたちが優しいので、従軍日記にて慰められる。

変なことに首を突っ込んだものだと思いながら、首も頭も失っている癖にと自分をなじる羽目に陥る。なじってもなにも響かないので、これ幸いと、雨が降り続くことに飽きたという記述に差し掛かったら、実際に外が大雨という気味の悪い思いをしている。

これでは記憶と体験をしたことになりやしないだろうか?


それと同じことが、起こっていたのではないだろうか?

消えた過去は空白で埋まっていて、その、空白というものを喪失したのではないか。
精神的暴力とかカッコイイ言葉で頑張ろうとしたが、虚無と空白という感じしかしないのだから、仕方がない。

喪失と虚無感はまるでセットのようだ。


5GWについての論文をいくつか訳していく間に、ずっとハイブリッド戦争が自分に起こっていたのだと分かった。それもなんか長い年月。

まるで、現実とリンクしているように、コロナだとか爆弾だとか戦争だとかワクチンだとかいうのも起こっていた。

平行して起こっているのか、同時に起こっているのかわからないけれど、「自分の頭の中の思い込みを疑え」と、その論文を書いた人たちは口をそろえて長い長い文章で説明しようとしていた。


「なるほど、何かを植え付けられたらしい。それが思い込みになっていた。そこから離脱したら、その思い込みを喪失して、虚無感だけが残ったってことか?」と、ふと、思いつく。

もう、相手はいないし、終わった・・・と思った瞬間に、この状態に陥った。

バカ猫が「メシクレメシクレっ」と言ってくれなければ、つられて食べられなかっただろう。バカ猫をお猫様と持ち上げるのは癪に障るのだが、この猫がいなければとっくに虚無という危ないものに飲み込まれていただろうと思う。

バカ猫が、なぜこの家に居つくのか?は、天の差配としか思えない。

ちょっと感動する。


しかし寒い。

ふと頭をよぎるのは、南方戦線ではなく、能登の人たちの事や、ほかの被災地の人たちのことばかり。

ホッとする。
これが、南方の兵隊さんたちの心配をするようになったらお仕舞いだが、能登の寒さは実際に聞いていて、実は想像もできなかった。
想像できないからこそ不安だし、心配ばかりが募る。

暖かさと、温かいご飯と、眠れることは嘘のように大事だと知っているだけの私にできることなんて・・・・。


こういう時は、変なことを考えようとしないで、体が動いたり頭が動く人の邪魔をしないように、こういう抜け殻は動かないほうがいいのか?と思ったりすると落ち込む。


そして、また本に戻る。なんだこの繰り返しは。

ふと開いた久生十蘭の作品の「南方の鼻曲がり」(ちょっと記憶定かでない)を読み始めたら、最初から、従軍日記のある場面とリンクした。

滅多な事では怒らない日本人が、刀を掴んで走り出ようとした時に放った言葉が「云う事がある」だった。どうやら、南方の人に、日本人を馬鹿にされたという時の当たり前の行動が、作品の中で全く違う形で浮き上がるというのはどういうことなのだろうか。

その時久生十蘭は日記に、刀を掴んで走り出る人に向かって「滅多なことをするなよ」とだけ・・・書きつけていた。

頭来るよなあ~。日本人ってだけで馬鹿にされたら武器を持って言うその当たり前の行動が痛快で、「ああ、私もやったことがある。でも武器は持っていなったが、言う事はとことん言ったよなあ・・・」と、大笑いしてしまった。

精神の病にかかったのだろうか。

過去と、人の過去と、人の過去に書き付けてある誰かの過去の行動がリンクするなんて、きっと病に違いない。

一人で笑ってから、ゾッとした。


逆だったんだな。作品を読んでから、元のメモを読むのが正解なんだろう。しかし私はしくじってしまい、先に日記を読んでから作品を読んでしまっている。なんか、手元に数冊ある・・・。

妙な臨場感で心底怖い。

ひとつ前の戦争の日記を探していたら、たまたま久生十蘭の従軍日記に突き当たったのだろう。

久生十蘭の作品は、青空文庫にいくつか収蔵されているけれど、きっと、心が広い人が著作権の使い方を間違っていないのだろうと思う。

しかも、国立国会図書館デジタルコレクションでも、ログインするか、ログインせずとも「お読みよ」という状態にしてくれている。

空虚な張りぼてにもならない今、こういう優しさが身に染みる。本が命綱で、バカ猫に「メシメシメシっ」と言われてつられて食べる事で生き永らえていると、ありがたいことがあまりにも増える。


これは、どういったことなんだろう・・・。

いつまで続くんだろう。


久生十蘭が夜食のうどんを勧められても断るほどの船酔いの場面で、「うどん・・・食べよう」と思った。

うどんを進めてくれたのは、その日記の中の、私の知らない兵隊さんだった。


従軍日記に印象的な言葉があった、記憶はあいまいだけど「彼らと生死を共にし、傍観者にならずに済んだ」。



---7編収録・ログインなしで読めます--

久生十蘭 著『魚雷に跨りて』,春陽堂,1942.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1133547


久生十蘭 著『女性の力』,博文館,昭和15(1940).
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057521






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